信仰未満憧憬以上

明るみ・パンチ

グリーン・ホーネットの斎場

部屋で自分の死体を発見した。おはようからおやすみまで7年間慣れ親しんできた肉体はとっくに・かなり昔に・完全に失われていた。

今から7年あと、7年前、まぁどっちでもいいが、とにかく7年ほど前に不幸にも死んでしまった俺は、ポリ袋に入ったくにゃくにゃした自分の死体をゴミ捨て場に文字通り死に体で持っていった。どんな時でも冷静であるってことは良い事だよな。そうだよな? 全部燃えちまえと思った。自分の死体を片づけるなんて、それだけで天国に行けるはずだ。死体を紙袋に押し込んで、足と腕がはみ出た部分をポリ袋で隠しながら、てくてく歩いていって、今日が資源回収日であると知った。

殴打痕なし。柵条痕なし。その他目につく傷は見当たらない。

そうかよ。じゃあせめて資源になれ、と念じてカラスの視線を気にしながら死体を、間違って出されているパックやティッシュなどで詰め詰めになった他家のごみ袋の下方から引き出し、資源にするためにまた自宅前まで念仏を唱えながら歩いて行った。一瞬でこれでは駄目だと思った。  

資源回収トラックに死体を持って行ってもらうには自宅と歩道の境界線上に死体を置く必要があるけれども、死体をそんな目のつく場所に置いたら、近隣の住民が気付く。三面記事に乗る。見出しを飾る。  

そもそも正気の沙汰ではない。でもいいかぁ。と私は思った。だってもう肉体失われちゃってるし。俺は死人であるわけだから。

間違った方向に舵を切ってから、遭難したことに気付きながら足を止めずへらへら笑い、いつか落ちていた割りばしを拾って破滅に焦がれていたことがあった。壊れる前にすべてぶっ壊すことが誠実さの証であると愚かにも信じていたし、それは実際、そのように為された。一つの欠品にも似た信仰が、好きだった女をうっかり殺してしまった。こう言えば意味深長に聞こえるだろう。それとも君は心が無いって憶測にこだわるかな? 俺は、その女の金を拝借して泣きながら寿司を食いに行った。痴情の果てに彼女は額と口から血を流し、仰向けになって死んでいた。愚かだった。こういう言い方をしても赦してもらえないだろう。それでも一つだけ言わせてもらえるなら、これは俺の体内で起きた殺人だから安心してほしい。

ほとぼりが冷めたころに墓へ出向き、墓石を蹴り倒し、ローション相撲に着想を得て、ガソリンスタンドから拝借した灯油で墓場全体をかなりぬるぬるにした。やけっぱちのダンスパーティってやつさ。自殺志願者の踊りに変わりなかった。そんで7月初旬に痰を吐いて捨てていたおっさんの歩きたばこを原因にして、先祖代々、あまねくすべての人々に、脈々と受け継がれてきた墓と遺骨は灰燼に帰した。死者の安息が乱され、もう一度焼かれた骨が吹き荒れて灰が降りゆく草原で、俺はこれに爆笑した。 

脱皮しない蛇が滅ぶことを知っていても全然構わなかった。怖くなんてなかった。

可哀想におっさんは乳首まで焼けてその辺の草むらで呻いていた。

地獄みたいな光景だった。

いつか逃げ込んだ独房にも満たない2階建ての小屋で、窓から金色に輝く麦の穂が風に吹かれるに任せて倒れ伏していくのを見ていたことがあった。まだ生きていた彼女は絞り出すように「もう怖くなんてなかった」と言った。

怖くなんてなかった。

利き手は銃弾で潰されていたし、やりきることが難しい逃走劇に身を投じていた。とにかく彼女は復讐に自分で決着をつけた。これ以上好きにさせなかったってことだ。何回にも及ぶ延長戦を狙いすましたファウルでやり過ごし、やってきたツーアウト満塁。それを三振で終わらせるようなヘマをやるよりは、一発で美しい死体になる。追手の銃弾の砲火で、あるいは、殺しきれなかった殺人者の撃った一発の弾丸で。

レミングは海に飛び込んで全員死ぬんだからさ。

「あんたはレミングなの?」

向かいの子供が捨てていったアホみたいに泣き散らかす黄色い哀れなチキンが、そんなことを「ギャガガァ」の母音に込めて俺に喋った。

 

じゃあ燃やすかぁ、しょうがないし。と地の果てまで死体を引きずりながら歩いていき、世界の果ての火葬場にたどり着いた俺は、陽が落ちて暗緑色になった隣の空き地をふと見た。マジの人魂が見えた。人魂は科学的に説明がつくとか言うけど、あれは嘘。火葬場の隣の敷地にマジじゃない人魂が見えるか?見えるわけねぇだろ。すべての魂は青い。俺が見た人魂も青かった。

怯えながら葬儀場の中の自販機でペプシを買って一息ついた。喪服を着た美しい女がいつの間にか傍らに立っていた。死体があるとはいえ、死亡を証明する書類が無いので公的な施設では自分の死体を燃やすことができない。そう俺が言うと、女は

「もらいにいきなさいよ」

とだけ言って、カツカツとヒールを鳴らしながら斎場に去って行った。最もだと思った。 

役所に死体を担いでいき、発行書類を下さい。と長机の向こうの椅子に腰掛けている男の黒縁の眼鏡の奥を覗き込むと、妙な怯えの色があるのでその黒目に映る姿をさらに覗き込む。背中に担いであるはずの死体が映っていない。それで俺は、もうずっと第三者の目から確実な保証を得られる見込みのない幻想に囚われていることに気が付いた。この幻はいつか俺を殺すが、それまでは延命させてくれる。いつからこうだったんだろう、とも思った。一言も発さず俺は、立ち尽くして死体の重みを確かめていた。待ちぼうけていることが、誠実さを示す一つの手段になることがある。俺はずっと待っていた。それこそ七年間。だが何にも改善する様子がなかった。ここにはその手立てすら無いのだとわかった。死体の二の腕が冷たかった。

 死亡証明書ください。

その言葉が俺の口から出たのか、死体から出たのか最初は分からなかった。男の眼鏡が漫画みたいにずり落ちて、口から泡を吹いて気絶寸前のところまで行った。それは死体が口をきいたことを示していた。俺は決定的な破滅を待っていたと思う。でもそれは訪れることが無いのだと公式に告げるように、しずかに一枚の紙が手渡された。

 緩やかに終わっていけ、とその書類には記入されていた。あなたの墓までの道のりが、願わくば穏やかなものでありますように。

 ちょっと読んで酷い文章だと思った。意味のない言葉遊びだ。それは絶対に祈りではない。祝福の言葉でもない。でも悔しいことに呪詛にしては舌触りの良い言葉だった。さらばオマンコ野郎、もしくは死んでしまったグリーン・ホーネット。お前は確かに英雄だった。青い魂を持つ俺の英雄だ。

世界の果てから俺は、飽き飽きするほど通ってきた道に戻ってきた。分断された町に。電車と線路の手を借りなければどこにも行けないような。この街ではセミすら鳴きやしない。微動だにせず、その場で耳を澄ませても車のエンジン音と、知らん子供の声しか聞こえない。あぎゃぎゃ、失っちまった。そう叫びたくなったので道端に捨てられていたチキンを俺は拾った。悲鳴みたいに鳴きわめくので、俺もその音に紛れて泣けそうだった。

そして俺の死体は燃えた。

 

生きていて失った輪郭を再び際立たせるのが痛みであるように、死体が心臓を止めたとき、毛の先からつま先まで及ぶ0.2秒ほどの幻肢痛がある。存在全体の幻肢痛だ。あの死体がまさに死んだとき、生まれた幻肢痛は俺だった。だからか知らないが、魂と空気の接地部分がたまに痛む。痛覚が痛みを感じるか? 答えはYESだ。俺はこの先いろいろなことに向き合わなきゃいけなくなるだろう。でも痛みは痛みなりに上手くやる方法を見つける。痛みが襲う前に鎮痛剤を2錠飲むとかね。おそらくきっと多分。

パチモンのグリーン・ホーネット、人を救う術を知らないまま英雄になろうとしたあいつがスイスアーミーマンみたいに特に役立つことのない死体だったらいい。悪童の改心は寂しいからだ。ピノキオの鼻だって使いようはあったはずだ。解かれなくて済む呪いを俺は生きたいと思う。

灰はあの墓場に捲かれた。おっさんの乳首は再生して、ポロシャツの下からうるさいくらい透けている。焼野原になった墓場で八月初旬に痰を吐いているところを見かけた。おっさんは、自分の吐いた痰を2秒ほど見つめていたが、すぐにヘルメットをかぶりドラッグストアに向かって、スクーターで走っていった。