信仰未満憧憬以上

明るみ・パンチ

初夏にして君を離れ

 私がよく使っているアプリのメモ帳には昨日までマックの求人広告が表示されていた。何らの社会性もないたわごとを書き連ねているメモ帳に笑顔と大声が求められる求人が出るなんて誤ってると思う。チカチカうるせぇなあ、働けねぇよマックでなんかさあ、と逃げるように広告を人差し指で隠していた。最近は中盤でうんこを握りつぶして色に倫理に狂っていく男女の小説を読んで生きていた。これくらい狂いたい。そう格好つけたけれど、私の「狂う」という言葉は何の熱も持たず、空気に上滑りしていった。

 年金支払いを差し止める葉書の、効力のない片一方を持って来てしまった。ポストの前に佇んだ。自転車から降りた男子高校生が17時過ぎの郵便局のガラス戸に触れていた。しまってますよ、と声をかけたい気持ちを飲み込み、散乱したリュックサックの内部を漁った。手続きに必要な葉書はない。男子高校生は暗い郵便局を不思議そうに眺めていた。手のひらで触れても自動ドアは開かない。再度リュックを漁って、ふと振り返ると彼は居なかった。たぶん私と彼は同じくらい世間知らずだったろう。往生際悪くポストを見つめていた私と違い、彼はとてもうまく立ち去った。

 最近知り合っていい感じになった女性に過去のことを聞かれた。じゃーもしあたしを殴りたくなったら二つのバットを合わせて殴ってと言われたので、名案ですね。でも殴りたい時は抱きしめるようにします、というか殴りません、怒ったら距離取りますから、と返したら返信が来なくなった。

 鉄分が不足して怠い身体を落ちていく夕陽に向けて歩かせ、どうしてあかんのやろうと瞬きをした。あかんほどにやることが溜まっていた。恋もうまくいかなくなった。やることをやって、それで空いた時間にぷらぷら出来る、そういう物好きが赦される時間はとうに過ぎていた。

 友人Aは神様に恋をしていた。祈りに見返りを求めたとき、信仰ですらうまくいかなくなった。気まぐれに寵愛を受けた幸福な女の子に「あたしには何もないのに、ちょっとくらいくれたっていいじゃないか」と泣いて怒っていた。あなたは何にも失ってない、と宥めていると「生理が来て血が出たら涙も出てきた」とメッセージが来た。私はトイレで膝を抱えて震える友人を想像した。便器の水面にAの経血が滴っていた。私は魚を逃した気がした。白鯨ほどの珍しさはないが、銀色の美しい鰯だ。Aの血の塊を拾おうと便器に手をかざした。魚はどぷんと逃げた。腹が痛い、とAが泣いていた。生理が来る身体で、私はあの人にもう一度産んでほしかった。おっさんに。あの人が私の温かい胎だった。どうしてどうして恵まれた娘にもあの人は優しいの。私が一番ふこうなのに。どうしてどうして。私たちは堅実に暮らす可愛い女にどうしてなれんのだろう。おかしいということは免罪符には全然ならないよね。スマートフォンに絞り出すように話しかけるとAが唸った。しんでやる。Aは鼻の詰まった声で言った。あいつに傷ついている素振りなんて見せないまま、いつも通り媚を売った翌日に死んでやる。世間を捨てるということは、世間に捨てられるということだ。顔に刺青を入れたパンクロッカーは、世間を捨てている。そして俺を捨ててくださいと表明している。私はセックス・ピストルズをうまく歌えなかった。ある日とつぜん2年間好きだった女に馬鹿にされていることに気づいた。分かりにくい侮蔑だった。この曲が一番好きなのと教えられたseventeenを聴けなくなった。パンクロッカーじゃないから出来た恋人を抱きしめたかった。Aと私にとって彼と彼女は唯一の世間だった。恋人だと思った人と些細なきっかけでうまくいかなくなることが、世間に捨てられるのと同等の意味を持つのは私とAが弱いからだ。歩いていると静かに桜が散っていった。散りゆく花びらをせめて掴もうとして果たせなかった。

 ちかちかするマックの広告を人差し指で隠していれば、それで良かったと思う。それなのになぜか最近、私に墓を購入させようと目論む広告がでるようになった。ぶっ殺すとメモして、墓の帯広告を見た。Aは片想いを潰した彼女の友人に空元気で振る舞っているらしかった。

綾波レイがさ、シンジを守ろうとするのおかしいよね。シンジは強いから死なないのに。レイはさ、あなたを守るんじゃなくて、私は私が守るものっていうべきだったんだよ」

でもそれじゃあ話にならなかったの。私にも観客にも物語が必要だったの。舌ったらずな笑い声が聞こえて通話が切れた。最もだと思った。

 最悪なのは三十万たらずで墓が買えることだった。

 ゲイのことをホモ、レズビアンのことをレズという知識人が含まれる集団に、人の話が頭に入ってこないんです、たぶん気狂いだからーとへらへら打ち明けた日から本当に人の話が聞けなくなった。右から左へ言葉が流れていくようになった。ある知識人に「素直に」という言葉を指導内容に組み込まれ、五時間経って、夕なずむ部屋で女の子からの連絡を待ちながら、素直さは関係ないだろうがと腹が立った。何らのやる気もなく、恋とかそういう感情で二週間ほど腑抜けになっていた私は、それでも彼女を恨めないでいた。

 何がいけなかったんだろうと考えた。

 私はコンビニで有り金全てをおろした。コーヒーメーカーの隣にあったはずの自殺予防ホットラインの冊子が無かった。私は遊ばれていたのかもしれない。彼女はちょっとおかしかったから、私が言った睦言の始終をある日唐突に吹聴するかもしれない。

 ある日、バイトが終わったら死のうと思っていた。この労働を終えたら死ぬのだからと考えるとすべてがスムーズにいった。他人の葬式を運営しながら、なぜか脳裏で彼女を抱いていた。パシリと頬を叩くとシーツに顔を押しつけて嬉しそうにした。制服を脱ぎながら、この女は私が夜の海に呼び出しても来てくれると思った。葬儀場を出て、駅に向かって十メートル進んだとき、荒れた海の飛沫を浴びながら困ったように笑う女は「ほんとに来たんだ」と頬をかいた。何もできずに手を繋いでいた。バイトを終え、現実の彼女から送られてきたYouTubeのリンクを見て、雨の寒さと風の強さが怖くなった。死ぬのはこんな日じゃなくてもいいかと呑気に考えた。暖かくなったら死ぬ覚悟があるのかと問われれば、いいえと答えるだろう。いつかねえ、恋を埋葬するハメになってもいいの。Aはそんなことを言っていた。私は目をつぶって三十万の墓を買った。