信仰未満憧憬以上

明るみ・パンチ

火事場の周辺

 死にます・死にます・死にますで見事にビンゴを達成してしまう日がある。今日だ。私は布団の中で目を見開く。ヒアーミーアウト。聴ききれよ。脳のひとつひとつの溝に紫色の煙が充満して、油切れのブリキ人形のように身体ががたつき、地球を破壊する有害物質とともに自分の名前がモントリオール議定書に書き連ねられる。


 世界を破壊する手段の一つに、オゾン層を全部破壊してしまうっていうのがある。それでようやく知る。太陽が燃えているから、私たちは生きなきゃいけない。永続の意思を持って。続かないことを知りながら。生きるのは悲しいですね、と誰も口にしない。Sさんはノートパソコンをかろうじて落下しないぎりぎりの場所に置き、用意してきた言葉を喋りまくりながら、しきりに貧乏ゆすりをしていた。

 定形句を諳んじるような律儀さで発せられる彼の回りくどい口癖をここには書くことができない。なぜならあの人は多分に検索魔で自身の言葉が誰かに借用されていないか、ということに厳しいと思うからだ。チック・コリアの死を私は彼からのLINEで知った。あきまへんよね、死ってやつは。訃報のメッセンジャーとなって悲しくないのですか。好きだったのですか。という緑色の吹き出しに「崇拝していた」と返信が来た。

 三ヶ月延滞している本を図書館に返すことがここ最近の私の使命になりつつあった。カート・コバーンのポスターに重ね貼りされた糊つき付箋のメモ内容をまいにち目に入れながら、電話が来たら私はカウンターに向かうでしょう、と誰かに詫びを入れ、20ページくらいしか読んでないフロイトの夢判断をぱらぱらめくって最初の下りはやっぱ昼ドラみたいやよね、とのんきに思った。

「返してくださいよ。今すぐに」

 借りを?

 ぬかるむ雪溶けが道路一面に広がる暖かい日に電話があった。受話器を取ると、催促しているというよりは、なんだか悪霊を祓うために祈るような、職務をこなしている気概を感じる声がしたので、延滞者として安心して「はい、すいまへん」とだけ答え、今すぐ向かうことを告げた。奇妙に聖女っぽい声だとわたしが喉を枯らしていると、見計ったようにガチャリと電話は切れた。私が学業みたいなことをしているだけで、借金が膨れ上がる身分だということを看破し、数年越しに電話をください。腎臓を売り、マグロ漁船に乗ってでもあなたの今すぐに答えてみせますからね。

 やはり延滞者と催促者として出会ったのだから、後年もそれは続くべきですよね。などと妄想しながら私は三冊の本をリュックに入れ、家を出た。

 去年の今頃は疫病流行りはじめで、家にこもっていたため狂気のやりどころが無く、気と嗅覚が如実におかしくなり、青空を区切る電線と手のひらを交互に見つめ、自分の労働意欲を示す手相がついに繋がってしまったことに絶望していた。嗅覚もイカれ、疫病流行りの町という事実と消毒液散布という空想があほみたいに連結し、所用でバス停に佇んで消毒くせえ町だなあ、と宙を睨みながら足元の雪にかかとで穴ぼこを作っていた。

 誰も踏み入っていない新雪を思い描きながら早春のどろどろした瓦礫みたいな雪に足を取られて跪くように転んだ。冬は儚げな季節への期待として到来し、春はうつくしかった物への失望とともに来る。歩いているときに考えていることをどうしても忘れてしまう。塀のように固められた歩道沿いの積雪を指でなぞりながら、掴み取ったものを丸めて平熱で溶かして歩いていた。向かいから歩いてきた爺さんが子供を見るような目で一瞬こちらを見つめ、狭い道を通り過ぎた。

 ジョジョラビットという映画で、WW2の敗戦をジョジョが灰の降り積もる街に呆然としながら知ったように、そこら中の通りがよごれた雪で埋め尽くされている二月、私は廃墟となった図書館にたどり着いた。戦火を逃げ惑ったのちにジョジョは美しい幻想の親友ヒトラーと訣別する。私はいつかの夏に図書館が燃えればいい、とつよく願ったことを思い出していた。さようなら、と私は言った。

 図書館が人知れず燃えたのは新年明けてすぐのことだったらしい。延滞者が自宅で持て余していた書籍以外は全部燃えてしまった。消毒を目的とした図書館焼却といううわさが流れたが、新聞には続報が無く、探っても栓のないことだった。とにかく焼け跡に電話線を引いて司書たる彼女は待っていた。

 消毒液の散布で白塗りになった骨組みに、返却された本を立てかけて彼女はおっくうそうに笑った。急拵えの仮設建築の薄暗がりの下で、マスクをしているのに安堵したみたいに漏れた笑い声を指で抑える仕草がいっそう彼女を律儀そうに見せていた。Sさんが「もう目が覚めなかったらいいのにと思う日もありますが、」と前置きをして喋りまくっていたことを思い出し、モントリオール議定書が議決されてる音を無視して私は、チック・コリアのおすすめ曲はspain、聴きやすいらしいです、と最近返却されたというモダンジャズの延滞書籍を指差した。